東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻

海岸・沿岸環境研究室

概史

(第1部:1893年〜1988年、堀川清司名誉教授執筆、20141月)

 

はしがき

 1893年(明治26年)811日帝国大学令が改正され、各分科大学に講座を置くことが明記された。これを受けて、同年98日に、工科大学土木工学科には4講座が設置された。このうち、土木工学第2講座は河海工学を担当することとされた。これが現在の海岸・沿岸環境研究室の淵源である。爾来120年を経過したが、これを機に講座研究室の変遷を辿ることとする。

 先ずその第一段階として、1893年(明治26年)より1988年(昭和63年)に至る95年間について、「東京帝国大学五十年史」及び「東京大学百年史」などを拠りどころとして、本文をまとめた。

 

1.    東京大学工学系の二つの源流

(1)    東京大学の流れ

 1877年(明治10年)412日、東京開成学校と東京医学校は合併し、東京大学と改称された。東京大学は4学部体制となり、そのうち理学部・法学部・文学部は神田一ツ橋に、また医学部は本郷元富士町に置かれた。

 上記4学部のうち、理学部は数学科、物理学科、星学科、化学科、生物学科、工学科、地質学および採鉱冶金学科の7学科により構成された。この中の工学科は最終の4年次に土木と機械に分科して教育が行われた。

 やがて、1881年(明治14年)6月に、校地は本郷に統合され、法学部・理学部・医学部に加えて理学部の中の工学系の学科を統合した工芸学部が設置された。工芸学部は、土木工学、機械工学、採鉱冶金学、応用化学、造船学の5学科より構成された。

(2)    工部大学校の流れ

 明治政府は殖産興業を推進する目的で、1870年(明治3年)10月に工部省を設置した。そこに奉職する人材の育成のために、1873年(明治6年)に工学寮を虎ノ門に開設した。更に1877年(明治10年)1月に工学寮を工部大学校と改称し、その拡充整備を行った。

 工部大学校には、土木学、機械(工)学、電信学(電気工学)、造家学(建築学)、実地化学(応用化学)、鉱山学(採鉱学)、冶金学(鎔鉱学)の7学科が置かれ、更に1882年(明治15年)には造船学が加えられた。

(3)    東京大学と工部大学校の工学教育への取り組みの違い

 東京大学では工学科が当初理学部の1学科、しかも最終学年の1年間のみの工学教育であった。このことからも自明の如く、学理中心の教育がなされていたと考えられ、卒業生には理学士の称号が与えられた。

 一方において、工部省の教育機関として設置された工学寮の教育については、英国ScotlandGlasgow大学出身の若いHenry Dyerの提言を採択した。Dyer1873年(明治6年)から1883年(明治16年)までの10年弱の期間、都検(校長)として滞在して、教育を主導し、工部大学校への道筋を開いた。Dyerは学理と実践のバランスを考慮したカリキュラムを提案し、予科2年、専門科4年とし、特に5年生と6年生には専ら実地の経験を積ませることとした。

 東京帝国大学五十年史によれば、東京大学では、講義が69%、実習が31%であったのに対して、工部大学校では、講義が22%、実習が78%と、両者の力点の置き方は大きく異なっていた。卒業生には工学士の称号を与えた。

 ここで東京大学土木同窓会名簿を調べると、東京大学土木工学科卒業の理学士は、1878年(明治11年)3名、1879年(明治12年)5名、1880年(明治13年)6名、1881年(明治14年)6名、1882年(明治15年)4名、1883年(明治16年)4名、1884年(明治17年)1名、1885年(明治18年)1名の合計30名であった。一方において工部大学校土木工学科の卒業生の工学士は1879年(明治12年)3名、1880年(明治13年)8名、1881年(明治14年)7名、1882年(明治15年)7名、1883年(明治16)11名、1884年(明治17年)4名、1885年(明治18年)5名の合計45名であった。

 

2.    帝国大学の創設

(1)    東京大学工芸学部の設置

 東京大学は1885年(明治18年)12月に理学部に含まれていた土木工学・機械工学・採鉱冶金学・応用化学・造船学の5学科をもって工芸学部を発足させた。しかしながら、工芸学部の存在は実質3ヶ月の期間で、工部大学校との合併の受け皿となった。

(2)    工部大学校の東京大学への吸収合併

1885年(明治18年)12月付で工部省は廃止されることとなり、これに伴って工部大学校は文部省所管の東京大学工芸学部に合併され、廃止されることとなった。その実現までには幾多の経緯があった。

(3)    帝国大学令の公布

 1886年(明治19年)31日に帝国大学令が公布され、従来の法学部・医学部・文学部・理学部はそれぞれの分科大学に、また工芸学部は工科大学となった。その後、1890年(明治23年)には農科大学が設置され、合せて6分科大学となった。

帝国大学令には「帝国大学は国家の須要に応ずる学術技芸を教授し及び蘊奥を攻究するを以て目的とす」と規定され、帝国大学は学術技芸の蘊奥を攻究する大学院と上述の分科大学をもって構成された。

(4)    工科大学の発足

 工科大学長には古市公威教授が就任し、1886年(明治19年)51日から1888年(明治21年)1127日まで、並びに1889年(明治22年)1011日から1898年(明治31年)718日までの長きにわたり、その地位にあった。

 工科大学は発足の当初には、土木工学科・機械工学科・造船学科・電気工学科・造家学科・応用化学科・採鉱冶金学科の7学科より構成された。

(5)    講座制の導入

 1893年(明治26年)9月に帝国大学令は改正され、各分科大学に講座を置く旨が明記された。この時点で工科大学に対して認められた講座数は次の通りである。

 すなわち、土木工学(4講座)、機械工学(2講座)、造船学(2講座)、造兵学(1講座)、電気工学(2講座)、造家学(3講座)、応用化学(2講座)、火薬学(1講座)、採鉱学・冶金学(3講座)、材料及構造強弱学(1講座)の合計21講座であった。

(6)    東京帝国大学への改称

 1897年(明治30年)6月、京都帝国大学の設置に伴い、従来の帝国大学は東京帝国大学に改められた。

 

3.    土木工学科の講座とその変遷

1893年(明治26年)9月に土木工学科に設置された4講座の講座内容は次の通りで

ある。

 土木工学第1講座(鉄道工学)、土木工学第2講座(河海工学)、土木工学第3講座(橋梁工学)、土木工学第4講座(衛生工学)であった。

 1920年(大正9年)9月に至って土木工学第5講座(コンクリートおよび鉄筋コンクリート工学)が、また1923年(大正12年)8月には土木工学第6講座(河川工学および発電水力工学)が設置された。ここに至って、土木工学第2講座の講座内容は河海工学から港湾工学に改められた。以来久しい間、土木工学科は6講座編成で運営された。なお工科大学における学科共通講座と位置づけられていた、材料及構造強弱学講座は1893年(明治36年)に応用力学講座と改称された。

 1918年(大正7年)12月に大学令が公布され、これに伴って翌1919年(大正8年)2月に帝国大学令の改正が行われ、従来の「分科大学」は「学部」と名称の変更がなされた。

 1922年(大正11年)に応用力学第2講座が新設され、在来の応用力学講座は応用力学第1講座と改称された。1926年(大正15年)に土木工学科山口昇教授が応用力学第2講座を担任することになり、爾来本講座は土木工学科と一体となって運営された。

 1963年(昭和38年)、従来の講座名称は担当講座内容を明示することを目的として次のように改められた。

 土木工学第1講座は「交通工学講座」へ、

 土木工学第6講座は「水工学第1講座」へ、

 土木工学第2講座は「水工学第2講座」へ、

 土木工学第3講座は「橋および鋼構造工学講座」へ、

 土木工学第5講座は「コンクリートおよび鉄筋コンクリート工学講座」へ、

と変更した。なお、土木工学第4講座(衛生工学)は都市工学科設置に伴い、新学科に移籍された。

 土木工学科としては、上述の5講座に応用力学第2講座、更に1962年(昭和37年)に設置された道路工学講座、更には1972年(昭和47年)に設置された測量学講座を加えた8講座をもって運営された。

 水工学第1講座の講座内容は水理学、水文学、河川および発電水力工学、また水工学第2講座の講座内容は流体力学、海岸工学、港湾および空港工学とされた。このように2講座の担当分野を明確にされたのは、長年にわたり2講座の運営に努力された本間仁教授によって整理されたものである。

 

4.    土木工学第2講座・水工学第2講座担当者の変遷

土木工学第2講座が1893年(明治26年)に設置されてより、1988年(昭和63年)に至る95年間になされた教育・研究活動を回顧する上で、歴代の講座担当者の変遷を辿ることは有益と考えた。一方において土木工学第6講座が増設された時点で、講座内容が分割された経緯を考慮して、両講座について調査を行った。その結果を以下に示す。

 

講座担当者の変遷

年月日

土木工学第2講座の講座

水工学第2講座

土木工学第6講座

水工学第1講座

1893年(明治26年)

98

帝国大学分科大学における講座の種類及びその数を定める。

土木工学科は4講座(土木工学第1講座、第2講座、第3講座、第4講座)

土木工学第2講座(河海工学)

 

1895年(明治28年)

月 日

中山秀三郎助教授

(講座担当)

 

1896年(明治29年)

 月 日

近藤仙太郎講師

(講座担当)

 

1898年(明治31年)

1130

中山秀三郎教授(昇任)

(講座担任)

 

1923年(大正12年)

8月 日

(港湾工学)

井上範教授

(講座担任)

講座新設(第2講座より分離)

(河川工学)

中山秀三郎教授

(講座担任)

1926年(大正15年)

331

 

 

中山秀三郎教授退官

1926年(大正15年)

41

 

物部長穂教授(併任)

(講座担任)

1932年(昭和7年)

624

1932年(昭和7年)

月 日

井上範教授逝去

 

関信雄助教授

(講座担当)

 

1936年(昭和11年)

月 日

 

物部長穂教授(併任)

退任

1936年(昭和11年)

430

関信雄教授(昇任)

(講座担任)

 

1937年(昭和12年)

916

 

宮本武之輔教授(併任)

(講座担任)

1940年(昭和15年)

18

関信雄教授逝去

 

1940年(昭和15年)

131

本間仁助教授

(講座分担)

 

1941年(昭和16年)

416

 

宮本武之輔教授(併任)

逝去

1943年(昭和18年)

331

 

本間仁教授(昇任)

(講座担任)

1943年(昭和18年)

41

本間仁教授

(講座兼担)

 

1953年(昭和28年)

41

嶋野貞三教授

(講座担任)

 

1958年(昭和33年)

331

嶋野貞三教授

退官

 

1958年(昭和33年)

41

本間仁教授

(講座兼担)

 

1959年(昭和34年)

11

本間仁教授

(講座担任)

安芸皎一教授

(講座担任)

1960年(昭和35年)

1116

 

安芸皎一教授

退任

1960年(昭和35年)

11月 日

 

本間仁教授

(講座兼担)

1962年(昭和37年)

121

 

嶋祐之教授昇任

(講座担任)

1966年(昭和41年)

531

 

嶋祐之教授退任

1966年(昭和41年)

6月 日

 

吉川秀夫教授(併任)

(講座担任)

1967年(昭和42年)

331

本間仁教授退官

 

1967年(昭和42年)616

堀川清司教授(昇任)

(講座担任)

 

1968年(昭和43年)

331

 

吉川秀夫教授(併任)退任

1968年(昭和43年)

 

 

高橋裕教授(昇任)

(講座担任)

1983年(昭和58年)

71

 

玉井信行教授(昇任)

(講座担任)

1988年(昭和63年)331

堀川清司教授退官

 

1988年(昭和63年)

1016

渡辺晃教授

(講座担任)

 

 

この調査の結果から、以下の事実が確認される。

(1)    土木工学第2講座においては、井上範教授と関信雄教授の2代にわたり、講座担任の現職教授が逝去される不運な事態に遭遇し、講座研究室の機能を発展させる上で、大きな障害になったと推測される。

(2)    1938年(昭和13年)330日付で、内務省土木試験所より東京帝国大学に転じた本間仁助教授が1940年(昭和15年)1月、関信雄教授の逝去の後を受けて土木工学第2講座分担となったのは32歳の若さであった。また、土木工学第6講座は内務技師宮本武之輔併任教授の担任であり、2つの講座で唯一の専任教官であった本間仁助教授の責務は極めて重かったと推測される。その宮本武之輔併任教授もまた1941年(昭和16年)4月に逝去され、ここでも講座担任者は欠員となり、本間仁助教授の責務は一段と重くなった。このような環境の下で本間仁助教授は射流現象に関する研究を推進、1943年(昭和18年)330日に工学博士の学位を取得、翌331日には東京帝国大学教授に昇任、土木工学第6講座担任、同年41日付で土木工学第2講座兼担を命じられた。このような体制が1953年(昭和28年)までの10年間続いた。

(3)    1953年(昭和28年)41日嶋野貞三教授が就任、土木工学第2講座の担任となり、ようやく正規の講座運営がなされる体制が整った。

(4)    1953年(昭和28年)924日台風13号により伊勢湾沿岸に高潮災害が発生した。これが大きな契機となって、本間仁教授らは海岸工学のわが国への導入を計られた。海岸工学(Coastal Engineering)は米国California大学のDean M.P. O’BrienProfessor J.W. Johnsonによって1950年(昭和25年)に提唱された新たな工学分野である。

当時、東京大学大学院研究奨学生であった堀川清司は1954年(昭和29年)716日付で東京大学講師に採用され、本間仁教授より海岸工学の専攻を命じられた。当時土木工学第2講座は再発足して間がなく、その体制は未整備の状態であった。堀川清司講師は1955年(昭和30年)1116日付で助教授に昇任され、次第に海岸工学の研究活動が推進される状況になった。

 

5.    土木工学第2講座・水工学第2講座の研究施設の整備

(1)    1期(1954年〜1959年)

 土木工学第2講座は上述の経緯によって、1953年に再発足したとは云え、研究室も研究施設も実在せず、新たに作り上げて行かねばならない状況であった。そこで、堀川清司講師(のちに助教授)は、先ず工学部1号館地階北側の下水処理槽の上に仮設の小型平面水槽を設け、実験を開始した。翌年同じく工学部1号館地階土木工学科中庭に、流速計検定水路に沿って、短い木製波動水路を設置し、斜面上での波浪変形の実験を開始した。

 更に新たなスペースを工学部1号館外に求め、船舶工学科船型水槽と言問通りの間の空地に着目した。当時の山縣昌夫工学部長の許可を得て、船舶工学科乾崇夫助教授・元良誠三助教授と協議の上、中規模の平面水槽を設置した。この施設もその後大いに活用した。

 堀川清司助教授は1957年(昭和32年)9月より1959年(昭和34年)3月までの間、California大学Berkeley校に客員助教授・研究員として滞在する機会をえた。この間に得られた教育・研究の経験は帰国後の活動の展開に生かされた。この期間に、本間仁教授は新潟県土木部からの研究委託を受けて、離岸堤を形成するコンクリート・ブロックの波による沈下機構の解明にあたった。この際に念願の鋼製壁面ガラス張りの波動水路が設置された。これは屋外にあり、かつ水路延長が短いという難点があったが、初めて整備された実験施設であった。

(2)    2期(1960年〜1965年)

 1959年(昭和34年)9月末、15号台風(伊勢湾台風)により伊勢湾周辺は未曾有の高潮災害を被った。引き続いて1960年(昭和35年)5月、チリ地震津波が来襲して、日本列島太平洋沿岸に津波災害を惹起した。東京大学地震研究所長高橋龍太郎教授は研究代表者となり、東京大学の共用施設「津波高潮実験施設」の設置を文部省に申請し、これが認められた。施設の設置場所として、東京大学生産技術研究所千葉実験所が選定され、高潮津波発生装置を備えた平面水槽が設置された。当初は野外であったが、後に屋根が架けられ、その利便性は高まった。この施設は当該研究室によって、かなりの頻度で活用された。

(3)    3期(1965年〜1988年)

 1962年(昭和37年)4月、建設系の第3学科として、都市工学科の設置が認められた。やがて「建設3学科拡充後援会」が設置され、募金活動が開始された。

 当時工学部1号館土木工学科地下室には、南側に土質実験室、北側に水理実験室、北東側に橋梁実験室、更に北西側にコンクリート実験室が配置されていた。

 建設3学科拡充後援会の基金により、都市工学科の整備、工学部11号館の新築が行われた。その結果、土木工学科、建築学科のそれぞれ一部の講座研究室の移転が行われた。工学部1号館地下においても、橋梁研究室が移動し、その後に土木工学第2講座の初めての実験室が設置された。

 ちなみに土木工学第2講座は1963年(昭和38年)に水工学第2講座と改称されたが、1953年当該講座が再発足されてより、研究室の名称を当初の港湾研究室から海岸・港湾研究室へと社会情勢の変化と共に変更されてきた。現在(2014年)は海岸・沿岸環境研究室となっている。

 

6.    研究室の設置場所

土木工学第2講座再発足の当初は、その研究室は土木工学第6講座の水理実験室に間借りしていた。1958年(昭和33年)頃になって、工学部1号館2階土木製図室北東側の一隅に、職員のための研究室が設けられた。1963年工学部1号館4階にあった衛生工学実験室が新築の都市工学科に移動したので、その後に職員・大学院生の居室が作られ、研究室内の整備がなされた。更に土木工学科学部教育のカリキュラムの変更に伴って、1980年頃土木製図室の機能が停止されたのに伴い、その南側のスペースが水工学第2講座の研究室に割り当てられ、4階から2階に移動して、今日に至っている。

 

7.    研究方針と研究活動

 前述の如く、1953年(昭和28年)土木工学第2講座が再発足した当初には、研究を遂行する上で必要な研究費、研究設備、関連文献等すべてが欠如していた。従って嶋野貞三教授と本間仁教授はこの状況を苦慮され、研究資金の獲得に努力された。堀川清司講師(のちに助教授)は両教授からの指示に従って研究活動を実施した。

 1955年(昭和30年)に至って次の2つの展開がなされた。その第1は、当時の運輸省港湾技術研究所(久里浜)において、その平面水槽を借用して実験を実施したことであり、第2は神奈川県土木部よりの委託を受けて、江ノ島海岸・鎌倉海岸の海浜変形の現地調査を実施したことである。前者においては、波および海浜流の計測手法について試行を行い、また後者においては現地の現象の複雑さに対する認識を深めた。

 1957年(昭和32年)12月、日本原子力発電株式会社は、茨城県東海村海岸を発電所立地の候補地に決定した。やがて同社は、発電所取水施設の設計のための基礎資料の取得のための現地調査を本間仁教授に依頼した。その調査の遂行を、当時大学院博士課程の学生であった鮮于徹(Chole J. Sonu)に命じられた。この事業は、当該研究室にとって、現地の実態に触れる貴重な経験となった。

 これらの体験を通して、学術論文によって知ることの出来る理論的取扱いに加えて、幅広い知見と経験を駆使することによって初めて海岸工学の研究を遂行することが可能となるのだという認識を持つに至った。

 上述の経験から、研究を遂行する姿勢、あるいは方針として、理論・実験・現地観測を可能な限り並行して研究を進めることを基本的な方針とした。研究を遂行する過程において、計測機器の開発は進んだ。また電子計算機の機能は進歩し、その容量が増大するのに伴って、数値計算手法は急速に進歩し、種々の現象のシミュレーションが為されることとなった。しかし、その結果の妥当性を確認するためにも、実験および現地観測の結果の重要性が改めて認識された。

 ここで研究室として実施した現地調査地域名を北から順に示せば次の通りとなる。

新潟県下の新潟海岸、柏崎海岸、福島海岸;茨城県下の東海村海岸、阿字ヶ浦海岸、大洗海岸;千葉県下の屏風ヶ浦海岸、九十九里海岸、勝浦海岸、富津海岸;神奈川県下の鎌倉海岸、江ノ島海岸、湘南海岸、相模川河口;静岡県下の浜松海岸;大分県下の別府湾海岸。

 

8.    NERCプログラムの成果

1977年(昭和52年)10月、財団法人トヨタ財団より、「海岸利用に伴う海洋環境の変化、特に海浜地形変化の予測手法の開発」(堀川清司教授)に対して研究助成を受けた。この機会に、東京大学が幹事校となり、東北大学、筑波大学、横浜国立大学、東京都立大学、中央大学、建設省土木研究所、運輸省港湾技術研究所の研究者に呼びかけて、共同研究組織を形成し、茨城県大洗海岸において合同現地観測を実施した。これによって貴重な現地データを取得した。この経験を踏まえて、その後1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)に至る間、電気事業連合会からの依頼を受けて、「海浜地形予測手法の開発」を主題とする「NERCNearshore Environment Research Center)プログラム」を発足させ、鋭意真の意味での共同研究を目指して努力を重ねた。このプログラムにおいては、少なくとも年に1回合同現地観測を実施し、海浜地域で起こっている、波、流れ、漂砂の実態を把握し、そのメカニズムを理解するための取組みが為された。この際の体験は特に若手研究者に対して大きな刺激を与え、その成長を促進する上で、極めて重要な役割を果した。プログラムの成果は「海岸環境工学」(A4582頁)の成書として1985年に東京大学出版会より出版された。これを全面的に改訂して、1988年には“Nearshore Dynamics and Coastal Process – Theory, Measurement, and Predicted Models”A4522頁)が同じく東京大学出版会より発行された。このようにしてこのプログラムは国際的にも認知され、日本における海岸工学発展のひとつの成果として世界的に注目を集めた。

 

9.    研究成果の公表

本間仁教授は1955年わが国における海岸工学の発展を促進する為に、1955年土木学会の中に海岸工学委員会を組織し、自ら委員長としてその運営に尽力した。委員会は、毎年1回海岸工学講演会を開催し、そこでの発表論文は当初は講演集、やがては論文集として出版された。更には国際的な交流を促進するために英文論文集”Coastal Engineering in Japan”を発行することとした。これは現在”Coastal Engineering Journal”として国際的な学術誌へと発展している。

 海岸工学(Coastal Engineering)は米国Long Beachにおいて開催された“1st Conference on Coastal Engineering”において発足したが、この会議はやがて国際会議となって、隔年に世界各地で開催されている。この間1966年(昭和41年)に第10回国際海岸工学会議を本間仁教授が組織委員長となって東京で開催した。これは、わが国での海岸工学の発展の状況を世界に示す格好の機会となった。当該研究室でなされた多くの研究成果は前述の内外の機関誌に発表されてきた。

 

10.  歴代のスタッフ

 土木工学第2講座が1953(昭和28)4月に再発足してより、1988年(昭和63年)までの間に、研究を推進してきたスタッフを掲げれば次のとおりである。なお職名は退任時のもの、あるいは現職である。

 嶋野貞三教授、本間仁教授、堀川清司教授、C川登助教授、西村仁嗣助教授、渡辺晃教授、砂村継夫助手、水口優助手、三村信男助教授、磯部雅彦教授、柴山知也助教授、泉宮尊司助手、佐藤愼司教授。

 上記の他、研究遂行に寄与した主要な方々は下記のとおりである。

 Chole J. Sonu(鮮于徹)博士(東海村海岸調査)、小野(佐々木)民雄博士およびNicholas C. Kraus博士(NERCプログラム)

 

(本文は磯部雅彦・佐藤愼司両氏の意見を徴して取りまとめた)

 

本文とは別に、当該研究室の活動の上で、重要な役割を果されたと考えられる、古市公威教授、廣井勇教授、物部長穂教授、本間仁教授の先人4名の業績を以下に記す。

 

古市公威(1854年〜1934年)

 1854年(嘉永7年)721日、姫路藩士古市孝の長男として藩の江戸屋敷で生を受けた。1869年(明治2年)開成学校に入学、1870年(明治3年)姫路藩の貢進生として大学南校に進学した。1873年(明治6年)開成学校に設置された諸芸学科に進学した。1875年(明治8年)文部省最初の留学生としてフランスに派遣され、Ecole Monge à Paris1年、Ecole Centrale des Arts et Manufactures de Paris3年間学び、卒業して工学士を得た。更にUniversitè de Paris1年間学び理学士を得、1880年(明治13年)1021日横浜港に帰国した。

 同年1211日内務省土木局雇に、また1021日には東京大学理学部講師の兼務となったが、翌1882年(明治15年)1124日に兼務を免ぜられた。

 1886年(明治19年)東京大学工科大学教授兼工科大学長に任じられ、講義は河川・運河・港湾を担当し、内務技師は兼務と記録されている。

 ここで本文との対応を考えてみよう。1885年(明治18年)付で工部省は廃止され、工部大学校は東京大学工芸学部と合併の上、廃止されることになった。この措置に対して、工部大学校の教員や学生から反対する声が上がった。その事態に対処しうるのは古市公威以外にはないと浜尾新東京大学総理は判断し、奔走の末に1886年(明治19年)5月に古市公威を帝国大学工科大学長に就任させることになったと言い伝えられている。時に公威は32歳の若さであった。また同年56日には帝国大学評議官を命じられた。

 古市公威が在任した期間は、1886年(明治19年)から1888年(明治21年)1127日と1889年(明治22年)1011日から1898年(明治31年)718日の2期にわたっているが、この約1年の空白は海外調査によるもので、この間渡邊洪基総長が兼務した。

 古市公威の12年余の工科大学長在任中の大きな事業は講座制の導入にあったと考えられる。古市公威は各学科に所属させる講座の他に、いわゆる学科共通講座は必要と考え、1890年(明治23年)に文部省に提案した。しかし、折衝の結果、1893年(明治26年)に文部省によって決定されたのは、「材料及構造強弱学論」のみであり、古市公威の理念は実現されなかった。しかしこの講座は後に「応用力学講座」となったことは本文中に述べた通りである。1903年(明治36年)に東京帝国大学名誉教授の称号を授与された。

 古市公威の大学以外での業績については、ここには述べなかった。以下には学術・学会での業績について若干補足することにするに止める。

1888年(明治215月)、本邦初の工学博士号を授与された。

1900年(明治33年)に工学会副会長に就任した。

1906年(明治39年)9月より1921年(大正10年)6月まで帝国学士院会員となり、そのうち1909年(明治42年)7月より1921年(大正10年)6月までの間、第2部部長をつとめた。

1915年(大正4年)10月より1年間、土木学会初代会長をつとめた。

1919年(大正8年)男爵に叙せられた。

 1934年(昭和9年)128日に逝去した。79歳であった。

 

廣井勇(1852年〜1928年)

 1852年(嘉永5年)92日、土佐藩の儒学者の家に生まれた。しかしながら、徳川幕府の崩壊により家計は困難に陥り、加えて父が37歳の若さで他界、9歳にして廣井家の当主になった。10歳にして上京し、叔父片岡家に寄宿し、勉学に努め、満12歳で東京外国語学校に入学、その後工部大学校予科に転学した。更にそこを中途退学して北海道に渡り、札幌農学校の第2期生となった。内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾は同級生であった。土木工学、測量学等を学び、1881年に卒業した。開拓使を経て、工部省に勤務した。

 1883年(明治16年)12月には、長年の念願であった海外留学の機会を得た。アメリカに4年間、更にドイツに2年弱滞在した。この間実務の経験を積むと共に、勉学に励んだ。18897月に帰国、やがて母校札幌農学校教授に迎えられて教育に従事すると共に、北海道庁技師を兼任し、北海道の港湾建設に従事した。中でも小樽港の防波堤には心血を注いだ。当時コンクリートの海中での耐久性についての知見がなかった。そこで100年にわたって強度試験を行えるように、テストピースを残し、後人に託した。

 1898年(明治31年)に、札幌農学校から工学博士の学位を授与され、1899年(明治32年)9月、東京帝国大学工科大学より、土木工学第3講座(橋梁工学)の担任教授に招かれた。この人事は工科大学長古市公威の考えによると言われている。担当分野に拘わらず、土木工学科全体の発展に寄与した。

 1918年(大正7年)1126日、大学評議官に選出された。当時大学教官の60歳定年制が審議され、廣井勇教授はその導入に反対した。しかし、その意に反して決定された。その故と思われるが、定年までに4年近くを残して、1919年(大正8年)618日に教授の職を辞した。1920年(大正9年)に東京帝国大学名誉教授の称号を授与された。

 廣井勇教授は港湾工学の分野で大きな業績を残した。防波堤に作用する波圧を測定するべく、廣井式波圧計を開発し、その測定結果に基づいて廣井公式を提示した。この公式は長く防波堤設計に活用された。

 廣井勇教授は、多くの著書を残した。その代表としては、「築港(上、下)、1924年(大正13年)、丸善」および「日本港湾史、1927年(昭和2年)、丸善」を挙げることができる。

 1928年(昭和3年)101日に逝去、66年にわたる高潔無私の一生を閉じた。

 

物部長穂(1888年〜1941年)

 1888年(明治21年)719日、秋田県出羽物部氏の家に生まれた。第二高等学校を経て、1911年(明治44年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業、鉄道院技師、ついで内務省土木局技師となる。上司である沖野忠雄の示唆を受けて、東京帝国大学理科大学に編入し、理論物理学を学び理学士の称号を得た。

 1925(大正14)に「構造物の振動殊に其の耐震性の研究」により、帝国学士院より恩賜賞を授与された。

 1926年(大正15年)に第3代内務省土木試験所長に就任した。同年41日付で、東京帝国大学教授(併任)となり、土木工学第6講座を担当した。

 1933年(昭和8年)には岩波書店より大著「水理学」を、また常盤書房より「土木耐震学」を発刊した。

 1936年(昭和11年)32日付併任教授を辞任、1941年(昭和16年)99日逝去、時に53歳の若さであった。このようにして、東京帝国大学併任教授として在任された期間は10年にすぎなかった。しかし後に土木工学第2講座及び第6講座の担任教授として、大きな足跡を残した本間仁教授の恩師であり、内務省土木試験所での上司として、水理学への道に導かれたことは特筆すべきである。

 1926年(大正15年)には東京帝国大学より工学博士の学位を授与された。

 

本間仁(1907年〜2010年)

 1907年(明治40年)215日、横須賀市浦賀において生を受け、第一高等学校を経て、1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学工学部土木校学校を卒業した。直ちに内務省土木試験所に配属され、物部長穂所長の指示を受け、水理学に関連する研究に従事した。この間に物部長穂著「水理学」のための文献調査に協力した。

 その後、下関土木出張所、下関港修築事務所に勤務、1938年(昭和13年)3月東京帝国大学助教授に任じられた。以来1943年(昭和18年)3月に射流現象に関する研究により工学博士の学位を取得、東京帝国大学教授に昇任、1967年(昭和42年)3月定年により退官されるまでの29年間、水工学に関する教育、研究に従事した。在任中に、東京大学評議員、工学部附属総合試験所管理委員として、大学行政に関与し、退官に伴い東京大学名誉教授の称号を授与された。同年4月からは、新設間もない東洋大学工学部に在籍、第2代工学部長として大学の発展に尽力した。1978年(昭和53年)勲三等旭日中綬章を授与された。

 本間仁教授の特筆すべき業績は、在来の水理学とは異なり、流体力学に裏打ちされた新たな水理学を形作り、その後の教科書の基本を提示した所にある。また時代の要請に従って、河川工学、発電水力学、更には海岸工学の推進に尽力したこと、これらの分野で、多くの後進を育てて、世に送り出し、また多数の著書を執筆した。

 東京大学工学部土木工学科における、土木工学第2講座及び第6講座との係わりについては本文で詳述したように、長年にわたって両講座の運営に尽力し、幾多の苦難を乗り越えて現在の2講座研究室につなげた功績に対し、後人のわれわれは、深い敬意と感謝の念を捧げねばならない。

 2010年(平成22年)817日逝去、本間仁教授は103歳の天寿を全うした。